特別霊場
無量山 西光寺(さいこうじ)
【 真言宗豊山派 】
本尊 千手観世音菩薩
真言:おんばざらたらまきりく
御詠歌:さいこうじ ちかいをひとに たづぬれば ついのすみかは にしとこそきけ
- 荒川の上流をたどるにつれて渓谷風景となり川の表情が一変し、あたりの山々は次第に高さを増し、深い谷間に家々があり、やがて谷間は広がり、そこにわずかな盆地がある。
ここが秩父で西光寺はその中心地にある。
秩父の歴史は崇神天皇のころ、知々夫国として開かれ、知々夫産命が来任し、国の総鎮守として知々夫神社が祀られたことにはじまる。
後に”知々夫”は”秩父”に改められ、武蔵国の一部となった。
秩父神社から街中を歩いて1キロほどのところに寺はあり、簡素な山門より境内に入れば、宝永年間の建立といわれる本堂がある。
堂内には僧・行基作と伝える千手観世音が奉安されている。
昔、住僧の円比丘が、ある夜、月の光に見入っていると、突然老婆があらわれ「私は欲があまりにも深かったため、死んでからも救われずに苦しんでいる。私の子孫に菩提を弔うようにいってもらいたい。また、この寺へ霊験あらたかな観音様を導くから、その観音様に私の冥福を祈ってほしい」と懇願し、姿を消した。そこで円比丘は子孫に老婆を弔うよう告げ、自らもその霊を供養した。やがて老婆の予言通り千手観世音が到来し、ご本尊として奉安することができたという。
開山は僧・賢秀と伝え、元文年間(1736〜40)僧・寛明が中興した。
天明三年(1783)浅間山の噴火により秩父地方は10センチに及ぶ降灰で農作物や家畜は大被害を被り、また多数の犠牲者が出た。このために天明の大飢饉となり百姓一揆など発生し世相は混乱し、当時の住僧・法淳はその供養と後難加護、天下泰平を祈願し、十年後の寛政七年(1795)本四国本尊を勧請し廻廊堂を建立して尊像を奉安した。当時本四国を巡拝することは困難がともない一ヵ所で容易にめぐれる写しの霊場は、この地方の人々や観音巡礼から歓迎され、多くの参拝者があった。本堂右手の入口に本四国霊場のお砂踏み場があり、堂内に入ると第一番霊山寺から八十八番大窪寺までの写しの本尊、弘法大師、大日如来の尊像がコの字形の廻廊堂に奉安されている。いずれも江戸時代に造顕され、昭和五十一年には解体修理し、巡礼・遍路が土足のまま巡拝できるようになっている。
この廻廊堂に隣接した嘉永元年(1847)再建の四国より金比羅大権現を勧請した小堂がある。また廻廊堂に囲まれた中に江戸時代より打ちつけられた札堂があり、無数のクギ跡が残っている。
関東にへんろ道が開かれ、この寺が特別霊場になったのは、弘法大師ゆかりの真言宗であることはもちろんだが、やはり江戸時代以来本四国写しの本尊が奉安されていることによるといえる。
それに秩父観音霊場第十六番の札所で多くの観音巡礼も訪れるので「お観音さんもお大師さんも一つ」という巡礼・遍路する人の心を尊重し、観音巡礼と遍路を結ぶ霊場といえよう。